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社会

大衆を愚弄する“B層”という空虚な日本語


 あれこれインターネットを閲覧していると“B層”という単語を目にすることがある。テレビでは「B級グルメ」といった単語も横行しているが、それとは別に「“B層”グルメ」というのもあるらしい。私はこの“B層”という言葉が大嫌いである。とりわけ、政治の問題で大衆を“B層”と括ってしまう評論家を軽蔑せずにはいられない。

 “B層”という単語がいつ頃から市民権を獲得したのかは定かではないが、この単語が造語となったのはどうやら郵政民営化のときらしい。“B層”の一応の定義は「具体的なことはよくわからないが小泉純一郎のキャラクターを支持する層」ということである。しかし、郵政民営化のときに“B層”という単語がどれほど流行していただろうか。私の記憶力が乏しいだけのことであるのかもしれないが、郵政民営化のときに“B層”という単語が流行していたという記憶が私にはない。むしろ、最近になって目にしたぐらいである。どれほど“B層”という単語が流行しているのかは私もよくわからないが、あえて社会学的な言葉を使うとしたら “ファッド”といったところではないだろうか。

 作家の適菜収氏の本の中ではよく“B層”という単語がでてくる。『日本をダメにしたB層の研究』(講談社)はその名の通り“B層”の研究である。私は数日前にこれを読んでみて、実際、このブログを書くきっかけにもなったのだが、小沢一郎氏の批判とともに繰り返される、大衆をバカにした物言いがどうにも頂けなかったというのが感想である。

 私が先ほど“B層”という単語が大嫌いだと言った理由がまさにそこにある。一部のインテリ(だと信じている人)には“B層”と大衆を括ることで「日本国民の多くは政策のことなど考えずにイメージだけで選挙に行く」と大衆を愚弄している人がいるからだ。そして、その様に大衆を愚弄する、自分たちは賢い層だと信じている人は決って、「だから、小泉改革も民主党の政権交代もうまくいかないんだよ。大衆が支持することはいつも失敗ばかりだ。政治が停滞しているのも、そんな政治家を選んだ大衆が悪い」と発言する。

 実際、適菜氏の『日本をダメにしたB層の研究』の「はじめに」の部分にも、「一番悪いのは、こうしたバカを政界に送り込んだ国民です。やはり、ためらわずに言うべきだと思います。わが国はバカに支配されています」と書かれている。この本は、冒頭からすべて「です・ます」体で書かれているのだが、それが客観性を表現するための作者の意図なのか、あえて“慇懃無礼”な文体で書くことで、文章そのものでも大衆を愚弄しているのかはわからないが、私はそういった大衆批判がどうにも好きになれない。

 そして、同時に、大衆を“B層”と括る、一部のインテリや評論家が、むしろ、そういった大衆の「知恵の輪」に恐れをなしているのではないかとさえ思うのだ。

 その一番の根拠がネットである。ネットでは誰もが自由に意見を述べ、そしてそれに反応する人々がいる。誰もが「発言者」たり得るネット社会では政党の政策においても人柄においても様々な情報が得られる。今日の日本で大々的なプロパガンダが通用しなくなったのにはネットを利用する大衆の存在があると私は思う。“B層”と括る人々はそういった事実を認めず、大衆を愚弄することで空虚な自分の聡明さを得ようとしているのではないだろうか。

 政治に通暁している方々はお怒りになるかもしれないが、私は政策が政治家を選ぶ基準にはならないと思っている。評論家が指摘する「イメージに踊らされる」B層というのも有権者であることには違いない。「ファッションから政治を語る」ことをモットーにしていから言うわけでもないのだが、ファッションやルックスやしぐさも、有権者が政治家を選ぶ基準であって良いと私は思う。選挙制度とはそういうものである。それを批判することは結局のところ民主主義の批判に繋がることになる。だから、そもそも、“B層”の揶揄される根源である「一時的な感情やイメージで政治家を選ぶ」といった点にも私は好意的であるため、何も“B層”と大衆を括ることにこれほど長々と持論を述べる必要もないのだが、それでもやはり、「大衆批判」という点で大衆を“B層”と括る人々に一言物申せずにはいられなかったのだ。

 社会学者で哲学者の鷲田清一氏は『<想像のレッスン>』(NTT出版)のなかで言葉について「何かすでにあるものを叙述するというより、なにかある、形のさだかでないものに、はじめてかたどりを与えるということ」と書いておられた。

 “B層”。その言葉もまた、実体のないものをあえて括り、他と「分ける」ことで、言葉だけが独り歩きしてしまった、空虚な日本語の1つではないだろうか。

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