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日常

地元の清掃活動に参加して思うこと~“温性”ある政治とは?国家とは?~

 私が地元商店街主催の清掃活動に参加して1年が経過した。たまたま居酒屋で知り合った方が、その主催者の一人であったことがきっかけであり、その方と「一杯一杯また一杯」と飲んでいるうちに、「じゃぁ、ボクも来月からゴミ拾いに参加しますよ」ということになったのである。

 それから、地元の小学生らとともにゴミ拾いをしているのだが、こういった活動は素晴らしいと最近改めて実感している。しかしながら、「商店街主催」でありながら、商店街の方々の人数が少ないのではないだろうかと感じてしまうこともあり、それはこの活動の弱みでもあると思うのだが、そのことに関して外部の私が口を出すべきではないので、これ以上は言及しないが、意外にも大手喫茶チェーン店の店員さんや大手企業の支店の方々が参加されていることに驚く。そして、何より、地元の小学生の多くが参加していることに私はとても感心している。子どものときにこういったゴミ拾いをしてきた子たちが大人になって平気でポイ捨てをするような大人にはならないであろうと思うからだ。こういう活動を子どもたちとともにしていくことも1つの教育であると思う。そして、自分たちの住んでいる地域を綺麗にしながら、その地域に誇りをもつことは大切なことであると私は思う。

 本日もいつものように清掃をしていたのだが、私はあることに気がついた。それは喫煙所付近のゴミの多さである。缶やビンなどあらゆる小さなゴミが喫煙所付近の花壇に投げ込まれていた。特に多かったのはタバコのパッケージのフィルターのゴミである。おそらく、新品の箱を開けたときにゴミになるものであるのだろうが、それがたくさん捨てられていたのだ。

 確かに、「分煙」や「歩きタバコ防止」に取り組むために喫煙所を設ける区役所やJTの連携は良いことだと思う。しかし、その喫煙所に小さなゴミ箱を設置するのも1つの「知恵」ではないだろう、か。行政がそこまでする必要もないのかもしれないが、JTが共同で設置している喫煙所ならばそういった「心遣い」はあっても良いと思う。なぜなら、それらのビニールはパッケージを空ける際に必ず出るゴミだからである。
ここに、田中康夫氏の言葉を借りるならば“温性”なき政治があるのだと思う。喫煙所を設置するならばそれくらいの“温性”があっても良いのではないだろ、か。「分煙」や「歩きタバコ防止」をしたら、街がゴミだらけになりました、では結果的に街にとって良くなったとは言えないからだ。そして、私はこういう活動をしたからこそ、そのことに気がついたのである。

 無論、本来であればたとえタバコのパッケージのビニールゴミが出たとしても、それらをポイ捨てした人々を非難するのが筋であろう。しかし、喫煙所を設けたならばJTと区役所も小さなゴミ箱を置くという配慮くらい、喫煙者にしても良いと思う。そして、それが結果的に、喫煙者であろうとなかろうと、地域の人々のためになるからだ。

 私は普段はタバコを吸わないので、喫煙者の真の心理はわからない。しかし、現状としてそういったことがあるならば喫煙所付近には小さなゴミ箱を置くべきである。回収はJTと区役所で話すべきだ。そして、同時に、JTがあれほどまでに「分煙」をコマーシャルしているということを踏まえてもJTにはもう少し“温性”ある対応を求めたい。そうでなければ、あれらのCMが単なるイメージアップのためだけではないだろうかという疑いを持ってしまうからだ。

 私は比較的、「小さな政府論者」である。その私が上記のことを要望するのも不思議に思う人がいるかもしれない。しかし、現状を見たからこそ言えることもある。私は「弱者の強者」と言われる人々に厳しい意見を言うときもある。しかし、一見すると小さなことでも、結果的に大きなことに繋がることもあるということも理解しているつもりだ。そして、地域のために多くの方々が尽力していくということの大切さは、私と思想的に共鳴して頂いている方々にも理解して頂けると思っている。「地域のため」という考えは「国家のため」という考えにも繋がるはずだからだ。それが、昨今、「自分たちの地域のため」に尽力することにしか念頭にない政治家がいるから国家観を見誤ることがあるのだと思う。地域なくして国家はないが、国家なくして地域もないのである。

 明治維新の志士たちは「国家観」を見据えていた。彼らにとっては、今まで藩という共同体が「国家」であったのだが、外国の脅威を前にしてその枠組みを外さざるを得なくなった。そういった意味でも現代はさらに「国家観」を見据えることが大切である。無論、そのためには自分の地域を大切にすることが大前提である。そうすることで、それらの人々に選ばれ、はじめて国家の舵取りができるのだ。「国益」のために自分の信念を貫き通すためには選挙に強くなければならない。風が吹いたら飛ぶような政治家ではいけない。それでは時々によって信念を変えなければならないからだ。自分たちの地域を大切にすることが国家を大切にすることに繋がるとはそういうことだと私は思う。そして、それこそが「民主主義」を発展させる方法ではないだろう、か。

 と、地元商店街主催の清掃活動の話からだいぶ話が逸れてしまいました…。
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外人オトコとブチュー


 ここ最近、急に寒くなってきたような気がする。特に朝晩の冷え込みは厳しいものがあり、私は先週から冬用の布団を出している。なあんて、つまらない日常をだらだらと書くつもりはないが、やはり書く。(ここでご覧になるのを止めてしまうのも一つの選択肢かもしれません)

 私は寒くなると温かいスープが飲みたくなる。数日前、温かいスープとハンバーガーを昼ご飯として選んだボクは、少々値が張るものの国内産の食材を使用していることを売りにしているあるハンバーガーショップに出向いた。レジで注文を済ませ品物を待っていたところ、隣のテーブルに座っていた、黒人の男性と日本人女性がポテトを食べながら、いきなり、“ブチュー”とキスをするのだから本当に嫌になっちゃう今日この頃。まさに“ブチュー”という表現がぴったり。何故か、私はこういった場面に出くわすことが多い。それもハンバーガーショップで。以前も似たようなことをどこかで書いた気がするのは気のせいかしら。

 それはともかく、見てはいけないと思いながらも、好奇心旺盛で研究意欲があるボクは、チラチラ何度も見てしまうのだが、確かに“凝視”するボクも問題ですけど、そのカップルの“露骨”さといったら、日本人カップルには到底マネできないほど。

 ブチュブチュするのは構わないが、公衆の面前ではやめて欲しいなぁと思うのは、これ人情というもの。(保守派の評論家でなくてもこれくらいのことを感じる人は多いはずです)
六本木の交差点でちょっと信号待ちしていたり、ちょっと暗闇の坂に入ったりすると、まわりのカップルが、ブチュブチュし始めるのには、「日本も国際都市になる、かな」なあんて期待も込めようこともできますが、この手の“異国人カップルブチュー”には、いささかの抵抗を覚えてしまう。

 しかしながら、まぁ、ボクの“少ない”経験と“根拠のない”統計から申し上げますと、外国人男性と日本人女性のカップルにおいて、その日本人女性にろくなのがいないというのは、偏見かもしれないが、これが結構当たっているから困ってしまう。(ちなみに、私の叔母はアメリカ人と結婚しております…)それは容姿いかんというより、なんというか、勘違い女が多いというか……。

 だいたい、この手のカップルの日本人女性は、キスをした後、まるで自分までもが外国人になったような表情をしていて、本人は自己陶酔しているのでしょうが、こちら側としては何とも不快な光景。
本人は、“公衆ブチュー”のできる外国人と付き合っていることを見せびらかして、自慢をしているつもりでしょうが、底意地の悪いボクからすると、「日本人に相手にされないから外国人に逃げ込んだのでしょう?」と思わずにはいられないのである。

 ボクは以前、名古屋で、真っ赤なドレスを着た背の高い金髪美女(おそらくロシア系)が、セカンドバックを抱えた小さいオッサンと腕を組んで歩いているのを見て、幼心に、「ええなぁ~」と思ったことを今でも覚えているが、日本人男性と外国人女性のカップルの方が、いくぶん、好感がもてる。

 ここまで書いてきて、こういう書き方をずっとしていると、まるでボクが人種差別や女性差別をする“国粋主義者”のように見えますが、そうではありませんよ。単なる“偏見”と捉えて頂いて結構です。ただ、ボクは、公衆の面前で、わざと、堂々とキスをする“濃く吸い”主義者に嫌悪感を覚えているだけですからね。


“紹興酒”と“ワイン”

 先日、ある大学の先生数名と食事をする機会があった。中華料理を食べに行くということになったのだが、実を言うとそれは私にとって久々の中華料理であった。私は“思想信条”を理由に長い間、自分の口からは「中華料理を食べに行こう」と決して言わないようにしているのだ。愚かな話だと思う方が多いかもしれないが、人間の好き嫌いなんてものはそんなものである。

 結果的に食事会はいろいろな話で盛り上がり、私は勧められるままに「一杯また一杯」と楽しく“紹興酒”をガブガブ飲んでいた。ところで、この紹興酒であるが、私は以前、ある台湾出身の方から、紹興酒に関する面白い話を聞いたことがあるので、ここに書かせてもらいたいと思う。

 その方の話によると「紹興酒」はもともと紹興市付近だけで製造されていたものであるらしいのだが、どうやらその紹興市というのは、もともと、とても貧しい街であったらしいのだ。そこで女児が1人生まれると、近所の人々がお祝いにお酒を持ってきてくれるのが風習となっており、そして、その女の子の父親は甕に様々な家庭から貰った酒を入れ、十数年寝かすことになる。そして、15、6歳になった女の子が結婚するときに、貧しい故に娘に持たせる物が何もないということで、「嫁入り道具」として、その「紹興酒」を持たせるのだそうだ。だから、紹興酒はもともと15年物が一般的であったらしいのだが、近頃では“需要と供給のバランス”により5年物だったり、10年物だったり、いろいろな物が流通している。中国がいかに“資本主義経済”であるのかということが、「紹興酒」1つとってもわかる、というのはちと大袈裟な話か、ナ。それにしても、これはなかなか興味深い話である。“貧しい”ときの“豊かな”知恵ではないだろう、か。

 さて、話はだいぶ脱線してしまったのだが、その食事会にはまだ続きがある。話がいろいろ盛り上がっているときに、たまたまその先生たちの同僚の1人が何人かとともに入店してきた。彼は中国人で大学の先生らしいのだが、来て早々、私たちのテーブルに新たな紹興酒を差し入れてくれたのだ。優しい顔をした気さくな感じの方で、「中華料理には一番紹興酒が合います。是非、皆さんで飲んでください」と言われていた。私はそれを聞いて、「なかなか気前のいい人だなぁ」なんて思いながら、図々しくも、頂いた紹興酒をグラスに注ぎ、砂糖を入れようとしたのだが、すると、中国人の彼に「それ(砂糖を入れるの)は台湾の飲み方です。中国では常温でそのまま飲むのが普通です。それが一番美味しい」と指摘され、やはり、「中華思想ここに見つけたり」とちょっとがっかりしてしまった。

 そんなこんなで、食事会が終わり、帰ることになったのだが、何気なく、先ほどの中国人先生のテーブルに目を遣ると、なんと赤ワインを楽しそうに飲んでいるではないか。「中華料理には紹興酒が一番合う」と私たちに差し入れまでしてくれた彼が赤ワインをゴクゴク飲んでいるのである。私はここに、中国の「愛国心」と「外交」の姿を見たような気がしたのだ。大袈裟かもしれないが、そんな風に感じたのである。つまり、他国の人には「母国の酒」をアピールし、「愛国心」を見せつけているように思えたのだ。もしかしたら、見せつけるつもりではなかったのかもしれない。ただ単に「母国の酒」を勧める「愛国心」なのかもしれない。しかしながら、実際に彼はあれほど勧めた「紹興酒」ではなく「ワイン」を飲んでいたのである。まぁ、確かに、ワインと中華料理の相性が良いのもよくわかりますがね…。

 それで、また、止せばいいものを、酒の勢いもあってか、口数の多い私は帰り際に、わざわざそのテーブルに行き、そのことを彼に指摘したのである。そしたら、彼は、笑いながら「でも、これは長城のワインだからね」と言ったのだ。それを聞いて私はなんとなく可笑しくなってしまった。でも、やはり、同じ中国産にしても、「ワイン」ではなく「紹興酒」を勧めたところに中国外交の“したたかさ”を見たような気がするのだ。

 しかしながら、何だかんだ言いながらも「紹興酒」を御馳走になっておきながら、こんな風にブログに書いてしまう私という人間は、何とも底意地の悪ーい「保守」でしょう、か。