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2013年04月

Chloé(クロエ)の“財布”が人気を博する“女子大生”の心理とは?


 前回のブログでは「女子大生」のファッションが細分化されているということについて少々私見を述べさせて頂きました。そして、同時に「着るもの」は細分化されているにも関わらず、それでもなお、バックや財布には「高級ブランド」志向が残りつつあることについて問題提示させて頂きました。今回はその現象について考えていきたいと思います。

 現在の「女子大生」が、かつての「女子大生」に比べ、ルイ・ヴィトン、エルメス、シャネル、フェラガモ、グッチといった“高級ブランド”に対して、思い入れが薄くなっているということは確実に言えることです。これは、比較的、授業料のお高い“お嬢様”大学と言われるところにお通いの「女子大生」にも言えることではありますが、それらの大学でさえもルイ・ヴィトンのバックを目にすることが少なくなりました。これが何よりの証拠でだと思います。しかながら、人間の欲望というのはそうそう変化するものではありません。少し前の文章で「現在の女子大生が高級ブランドに対する思い入れが薄くなった」と申し上げましたが、それは、その子たちのお母様世代が思い描いている「高級ブランド」に対して、の思い入れです。つまり、彼女たちは新たなるトレンドの「ブランド」物にはめっぽう弱いのです。それは「高級ブランド」というより「ハイブランド」と申し上げたほうが適切なのかもしれません。

 Chloé(クロエ)というフランスのブランドがあります。エジプト系フランス人のギャビー・アギョン氏がビジネスパートナーであるジャック・ルノワール氏とともに1952年にフランスで創業したブランドです。白髪のポニーテールがお似合いの“おじいちゃま”である、現在シャネルのデザイナーとして有名なカール・ラガーフェルド氏が1963年にクリエイティヴ・ディレクターとして就任して以来、世界中で瞬く間に人気を博したブランドでもあります。

 昨今ではここの香水が爆発的に売れたことで春から夏にかけての駅のホームは「石鹸のような香り」でいっぱいになりますが、日本の“モデル”と呼ばれる“セレブリティ(有名人の意)”の多くはここのブランドのバックを愛用されている方がとても多いです。“カデナ”と呼ばれる“南京錠”がついているパディントンバックが一般的に人気でありますが、それらのバックのお値段は17万円前後と決してお求めやすい価格とは言えません。無論、「女子大生」にとってはなおさらです。しかしながら、首都圏の大学にお通いの「女子大生」は「モデル」という職種に弱いらしく、彼女たちの持っているバックが欲しくなってしまうらしいのです。

 彼女たちが「モデル」という職種に弱いのは男子学生の影響が大いにあると考えられます。“合コン”の席で「この子“読モ”なんだよ」と紹介されるだけで、その子の横に座る「女子大生」のほうがはるかに美人であるにも関わらず、「読モ」と聞いただけで、教養課程は別のキャンパスで学んでいるような“純粋”な男子学生は勝手に「モデル」と勘違いしてしまい、彼女との交際が決まったら「オレの彼女、“モデル”なんだぜ」と紹介したいあまりに、その「読モ」の女の子が10倍にも20倍にも可愛く見えることがあるのです。彼女が「読者モデル」になったのは1度か2度、スナップ写真で雑誌に取り上げられただけにも関わらず、です…。

 しかしながら、そうした“精神的ブランド”に弱いのは学生だけではありません。「中央官庁出身」というだけで地方の首長になってしまう日本社会では上記のことが決して珍しいケースとは言えないのです。

 本日も話がだいぶ逸れてしまいましたが、そうなれば「モデル」に憧れる「女子大生」がChloé(クロエ)のバックを欲しがるというのも“人情”と言えるのかもしれません。しかしながら、実際にChloé(クロエ)のバックを持っている「女子大生」はそう多くありません。では、いったい、その原因は何なのでしょう、か。

 もちろん、先ほども申し上げました通り、まず価格の問題があります。いくら高級バックは「一生モノ」だと解釈しましても、毎日、同じバックを持って大学に通うのには抵抗があります。そういった意味ではバックも消耗品なのです。「一生モノだから」という理由で購入を決意される方は、他に持つべき(可能推定の意)バックがたくさんある御仁なのです。このように申し上げると、「いやいや、昨今の女子大生はガールズバーやらキャバクラやらに勤めていて、相当稼いでいるらしいぜ」とご指摘する方がいらっしゃると思いますので、敢えて申し上げますが、それは明らかに間違った考えです。

 Chloé(クロエ)のバックを持ちたがる「女子大生」はモデル志向がある「女子大生」です。これは何も「モデル」になることを望んでいるという意味ではありません。そういった職種に憧れるという意味です。そのような子たちは得てして偏差値が比較的お高い大学にお通いの真面目な子が多いのも事実です。同時に、すぐにヴィトンに走らないという意味でも、有名で高級なブランドであれば何でも良いというわけではありません。「こだわり」がある「女子大生」なのです。「モデル」に憧れているのであり、「“モデル”がそんな仕事をしているはずがない」といった「モデル神話」を持っている子が多いのです。もし、Chloé(クロエ)のバック欲しさにそういった職種に就いてしまうことがあるとするならば、それはすでに自分の思い描いている学生生活からかけ離れてしまうと考えているので、そういった行動には出ないのです。簡単に申し上げるとするならば「そこまではしたくない」というのが本音だと思います。

 ちなみにですが、もう1つ申し上げておきますと、「キャバクラ嬢」に圧倒的に人気なブランドは「シャネル」であり、ガールズバー勤務の女性に人気が高いのは「セリーヌ」のバックです。ここにも“キャバクラ”と“ガールズバー”に勤務する女性の、「似て非なる」志向が働いていると思います。 (この件に関してはまた別の機会に)

 しかしながら、「女子大生」が価格だけの問題で、Chloé(クロエ)のバックを諦めているわけではありません。無論、17万円前後をするバックの購入を簡単に決断できる学生は少ないはずです。しかし、問題はそこではありません。先ほどのパディントンバックを例に考えてみるとわかりやすいのですが、このバックは財布、ポーチ、ハンカチ、携帯などを入れてしまうと、すぐにいっぱいになってしまう大きさです。まして参考書やペンケースなどが入る隙間などはほとんどありません。つまり、大学に通うことが“一応”の本分である「女子大生」にとって、とても使い勝手が悪いのです。また、重さも否定できません。都内をタクシーやら会社の車やらで“悠々”と移動される「モデル」の皆様は、たとえ“カデナ”と呼ばれる“南京錠”がついているような重いバックでも問題はありません。しかし、一般的な「女子大生」にとって、自身の持つべき(当然の意)物を制限して、参考書を無理に詰めたとしても、そのバックの重さは相当なものです。つまり、女子大生にとってのChloé(クロエ)のバックには多くの関門があるのです。
では、それでも「Chloé(クロエ)がカワイイ」とする「女子大生」が何に走るの、か、です。答えは財布の購入です。財布ならば毎日同じものを使用していても何ら抵抗はありません。価格も6万円前後のものが一般的であり、決してお安くはないですが、もしこれが6千円だとしたら、誰も欲しがらないというのがブランドの特徴です。

 上記のようなことが作用したことにより、結果的にChloé(クロエ)の財布が“オシャレ”に敏感な「女子大生」のなかでは人気があるようです。それは東京都南青山にやたら眩しい建造物を構えるPRADA (プラダ)の姉妹ブランドであるmiu miu(ミュウミュウ)でも同じことが言えます。PRADA (プラダ)の財布ではなくてmiu miu(ミュウミュウ)の財布の方がはるかに「女子大生」に人気があるのは上記で述べたChloé(クロエ)の財布を選ぶこととほぼ同じ理由です。

 最後にもう少しだけ、関連することを述べて終わりにしたいと思います。確かに「モデル志向」のある“オシャレに敏感”な「女子大生」にはChloé(クロエ)やmiu miu(ミュウミュウ)の財布が人気なのですが、それでもなおルイ・ヴィトンの財布を持っている女子大生が多いのも事実です。「とりあえず、ヴィトン」といった思考回路が未だ日本人に働く結果だと思います。丈夫で長持ちするのも、“木綿地に塩化ビニール加工をした”ルイ・ヴィトンの特徴です。そこで差異を目論む「女子大生」はダミエという選択をするのでしょうが、正直、「それってどーなのよ」とも思ってしまいます。

 その他にも、コーチやヴィヴィアン・ウエストウッドの財布を使用する「女子大生」もいます。正規店よりもアウトレットでお買い求めになられる方のほうがはるかに多いだろうコーチといブランドは財布だけに限らず、バックも「お母様と兼用」ということでお持ちになられる「女子大生」もいらっしゃいます。しかしながら、多くの女性がブランド物を持ちたがる理由の1つである「みんなが欲しがるから私も欲しい」といった観点からは、ほど遠いというのも事実です。また、ヴィヴィアン・ウエストウッドの財布を使用する「女子大生」には「倹約家」が多いように見受けられます。「高級ブランド」に対する意識はあまり積極的ではありませんが、それでも財布くらいは一応“ブランド”物にしておこうと考え、「あっ、ここのブランドのマーク、カワイイかも」といった具合に購入を決めているというのが実状ではないでしょう、か。

 何にせよ、ブランドのイメージというのは大きな意味合いを持ちます。「みんなが欲しがるから私も欲しい」というのは価格が高いのと同時に、持っているだけで“ワンランクアップ”と“オシャレ”な感じになるからです。それにはやはり、ブランドのイメージがあります。そして、ブランドのイメージは持つ側によって大きく時代とともに変化しているのです。しかしながら、日本ではブランド物を持っている人に対して「あの人お金持ちそう」という記号が先行してしまい、「あの人、オシャレね」といった感情が働きにくい人が多くいらっしゃるのも現状です。

 結局のところ、Chloé(クロエ)の財布を使用する「女子大生」の心理というのは「“オシャレ”な人の多くが欲しがるモノが欲しい」という感情と「みんなと同じでありたい。だけど、全く同じではイヤ」という感情が入り混じった結果なのではないでしょう、か。
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細分化された“女子大生”のファッション

 「女子大生」という“階層”が日本には存在しています。これは一般的に、「女子大」に通う学生(短大生も含む)を指す言葉ではなく、「男女共学の大学(短大も含む)」に通う「女子学生」を指す言葉であります。つまり、「女子大生」の広義は「大学(短大も含む)に通う女子学生」です。かつて、80年代を中心に「女子大生」というのはある種の文化の担い手とも言える存在でした。しかしながら、“文化”と申し上げますと、芸大出身の画家先生や文壇で活躍されている作家先生に怒られそうなので、“カルチャー”とした方が適切なのかもしれません。

 「女子大生」がファッションにおいて注目を集めるようになったのは70年代後半からだそうです。もちろん、そのピークは遠い昔に過ぎ去っています。「女子大生」が皆同じような格好をしていた時代です。現在は「女子大生のファッション」なんて一括りにすることはまずあり得ません。それだけファッションも細分化しているのです。しかしながら、かつては「女子大生のファッション」として一括りにできる定番のスタイルが存在していたのです。

 現在、六本木や渋谷あたりのクラブ(語尾上がる)にお通いの「女子大生」の皆様や、もしくは「そんな“小僧”の集まるところはイヤよ。やっぱり恵比寿あたりでなくっちゃ」なあんて真顔で言いながら、近くに本社ビルを構える「携帯電話販売業界では売上がダントツ1位」の比較的女子社員も多いことで知られる会社に属する“有能”な男性会社員たちと“合コン”なる“精神的ブランドの見せつけ合い”をしている「女子大生」からすれば全く想像もできないことでしょうが、当時の女子大生はみんながみんな同じ格好をしていたのです。「フクゾー」のポロシャツとベスト、もしくは「SHIPS」か「ボートハウス」のトレーナーに、タータンチェックのスカートを合わせ、ワンポイントロゴの入ったハイソックスと「ミハマ」のローヒールパンプスを履き、「キタムラ」のバックを持っていた時代があったのです。今や女性誌では、ほとんど取り上げられることのなくなったブランドばかりであるというのがファッションの残酷なところです。

 これらの現象は『女性自身』なる皇室関連の下世話な記事を載せる“不敬”雑誌を発刊している光文社から1975年に創刊された雑誌、『JJ』が大きな役割を果たしたそうですが、その後も、81年に小学館から創刊された『CanCam』、83年に講談社から創刊された『ViVi』、88年に主婦の友社から創刊された『Ray』を含めて、これらの「4大女性雑誌」が当時の「女子大生ブーム」を扇動していったことには間違いありません。この時代に「女子大生」の“ステータス”が確立されたのです。

 さて、だいぶ前置きが長くなりましたが本題です。では、現在の女子大生の“流行”とはいったいどこで見つけるべき(適当の意)なのでしょう、か。はっきり申し上げまして当時のような“画一的流行”はありません。しかしながら、たとえ“着るもの”が細分化された現在でも、それでもなお、高級ブランドのバックと財布は持ちたがる「女子大生」が多いのは紛れもない事実です。特に財布に関して申し上げるとするならば、バックは“サマンサタバサ”なる、駒澤大学ご卒業の寺田和正氏が代表取締役を務める、平均的には2万8000円前後の“ブランド”の会社のモノを持っていたとしても、そのバックから出てくる財布のブランドはルイ・ヴィトンが圧倒的に多いといったことは体験的にも皆様ご存知のはずです。では、近頃の「女子大生」の流行の傾向とはいったどういったものなのでしょう、か。

 それについては、また次回のブログで書かせてもらいたいと思います。

名古屋市長・河村たかし氏のファッションは“地方的大衆迎合”の“いやらしさ”の表れ、か

 河村たかし。64歳。第32・33・34代名古屋市長(現職)。地域政党減税日本代表。

 数日前の名古屋市長選挙の結果、河村たかし氏の名古屋市長就任(3期目)が決まった。得票率は約62%で、ご本人とってはまずまずの選挙結果であると思う。しかしながら、投票率が39.35%という異様に低い数値であったのは今回の地方選の特徴である。それほど関心の薄い選挙だったのだろう、か。

 河村氏の市政は減税と議員報酬の削減がメインであった。確かに、今回の結果は彼の市政が評価された証なのかもしれない。しかしながら、議会運営も含め、待機児童、敬老パスの問題など名古屋市にとっての課題は山積みである。

 さて、河村氏のファッションセンスであるが、タイトルからもご推察できる通り、私は嫌悪感さえ覚えるほどだ。単刀直入に申し上げれば「ダサい」の一言である。ここで、誤解を招く恐れがあるので、あえて申し上げさせて頂くが、私が唱える“政治ファッション”の指針として、ただ単に「ダサい」だけならばあまり批判をするつもりはない。「ダサい」かどうかの基準というのはファッションにおいて、とても微妙だからである。

 しかしながら、河村氏のファッションはただ単に「ダサい」だけではない。彼のファッションには政治家特有の「いやらしさ」がある。それは“大衆迎合的”庶民派アピールの「いやらしさ」である。(それは蓮舫議員が仕分け事業のときに、テレビに放映されるだろうことを考慮して、あえて「ユニクロ」の白いジャケットを着ることに似ているのかもしれません)

 まず、普段の公務のときの河村氏はヨレヨレの4つボタンのダブルのスーツに柄物のネクタイといった、“地方の建設業の専務さん”のような格好をしていることが多い。そして、彼の公式ホームページ(http://takashi-kawamura.com/)のプロフィール画像は腕まくりをした白シャツにネクタイ姿である。ここに彼の「いやらしさ」がある。そこにあるのは、上着を脱いで腕まくりをしてみせるといった“気さくな64歳”アピールである。彼のホームページをご覧になればおわかりになると思うが、政治家にあるべき(推量の意)威厳がまるでない。彼の名古屋弁とそのシャツ姿は、“地方の庶民オヤジ”的感覚を有権者に見せつけようとする“いやらしさ”が滲み出ていると私は思う。

 また、選挙期間中には中日ドラゴンズの帽子をだらしなくかぶり、シャカシャカした質感のジャンパーを着て、ヨレヨレのスラックスに、どこかで拾ってきたようなスニーカーを履くのである。そして、普段は乗るはずもないだろう自転車に跨り、各地の地域イベント会場で提供されるうどんやら豚汁やらを食べまくるのである。

 この選挙スタイルには“いやらしさ”がある。一部の有権者に気に入られたいがための“大衆迎合”の思想があからさまに映るのだ。いかにも、「私は庶民のオヤジです」が見え過ぎているのである。確かに彼は3期目の市長に当選したのだから、それは「民意」に相違ない。しかし、このスタイルが名古屋市にとってプラスに作用しているとは思えないのである。“大衆迎合的ダサい市長”のいる都市といったように…。

 名古屋市は商業的にもメディア文化(Ⓒ仲川教授・日本大学)的にも発達している大都市である。にも拘らず、彼が市長でいることで、たとえ政治的には成果があったとしても、文化的イメージの点では大いにマイナスに作用していると思う。河村氏は地方分権を目指しているのかもしれないが、彼のファッションと選挙スタイルを見る限り、地方特有の“ダサさ”という傘に入ろうとしているようにも見える。つまり、「大衆迎合的庶民派アピール」の市長が当選することは結果的に地方を地方のままで終わらせてしまうような風潮に繋がっているのではないか、と私は思ってしまうのである。これは決して地方を愚弄しているのではない。地方なくして中央も国家もないのである。

 しかし、彼が身につけていた、中日ドラゴンズの帽子とスニーカーは、紛れもなく「地方的大衆迎合」の思惑が滲み出てしまった“表徴”である。私にはむしろその姿が“地方”の選挙民を愚弄しているように見えたのであるが、これもまた“下種の勘繰り”ということなのだろう、か。

“美容整形”の手術を考えている女性へ

 
 最近、就職活動のために整形手術をする女子学生がいるという話を聞きました。随分前からあった事例だそうです。韓国では就職活動のための整形手術は一般的なようで、「就職に有利に働くならば印象を変化させることは当然のこと」だと考えられているそうです。

 一口に“整形”と申しましても、私たちの捉え方は様々です。例えば、「アイプチ」と言われるものがあります。これは、「ケサランパサラン」で有名な、大阪府は大阪市北区に本社ビルを構えるピアスグループの傘下である、イミュという東京都は中央区銀座に事務所を設置している会社のグループ会社であるエルソルプロダクツが商標登録した「化粧品」を指す言葉であります。しかしながら、一般的に「アイプチ」と言えば、「化粧品」そのものを指すだけではなく、「アイプチしてる?」といったように、液状のりをまぶたに塗り、人工的に一重まぶたから二重まぶたにする“個人的整形”を指す言葉でもあります。もちろん、法律上「アイプチ」はイミュだけのものでありますが、実際には「アイプチ」と同じ役割をする製品はたくさん販売されています。

 ここで、普段、私の政治的内容をお読みになってくださっている男性読者の方々にこの現象をわかりやすく申し上げるとするならば、全ての「セロハンテープ」を一括りに「セロテープ」として取り扱っていることによく似ています。「セロテープ」とはニチバンが商標登録した商品名であるので、本来はニチバンが販売する「セロハンテープ」のことのみを指す言葉です。しかしながら、その他の会社が製造した「セロハンテープ」も全て「セロテープ」と呼んでいるのが通例だと思います。つまりは、商品名がその商品全てを指す言葉になっている現象のことです。

 さて、話はだいぶ脱線してしまいましたが、その「アイプチ」を近年の若い女性たちはいわゆる“整形”とは捉えていないと思われます。それは、フォトフェイシャルや日焼けサロンで肌を小麦色にすることを“整形”と分類しないことと同様です。つまり、「あの子ちょっといじったらしいわね」といった概念で話される“整形”とは全く異なるということです。ここでの“整形”は正確に言えば“美容整形”です。これは、病院で目を二重にするだとか、胸にシリコンを入れるだとか、鼻を高くする手術をするだとか、のことを指します。

 高校3年生の春に“大学デビュー”なる「今までの“非社交的”な自分から“積極的”に行動する自分に変わるための“精神的肉体改造”」を目論み、“美容整形”をする人々がいます。特にこれはエスカレーター式で大学進学のできる私立高校に小学校から、もしくは中学校から通っていたはずなのに、何らかの理由で他大学に通うことになった首都圏在住の女の子に多い現象です。もちろん、言うも疎かですが、父親の社会的地位も高く、比較的高収入の家柄であります。おそらく、彼女たちは単に“大学デビュー”を目論むだけではなく、もともと“美容整形”に対する抵抗が少ないものと思われます。それは母親がエステやらフォトフェイシャルやら、またちょっとした“美容整形”やらで、顔のしわをのばしたり、ちょっと頬をひっぱたりする光景を目の当たりにしている子が多いからでしょう。「しわの多さも女性の魅力」なんてことは“詭弁”だということが良くわかっているのだと思います。

 これらの文章からもご推察できることと思いますが、私は比較的“美容整形”に寛容的です。ちょっと二重にしたことで、コンプレックスを克服し、社交的になり、豊かな人生を送ることができるならば、誰にもそれを咎める権利はありません。“美容整形”はピアッシングとはまったく意味合いが異なります。「親から貰った大事な身体に傷を入れるなんて…」といった発想が働きにくいのも“美容整形”の特徴です。ただ、整形後も物足りず、ありとあらゆるコンプレックスを常に意識して、強迫観念的に何度も整形をするようになってしまうのは考えものです。

 “美容整形”するのにも良心的なお医者さんを選ぶ必要があります。たくさん本を出版されていたり、メディアに多く出演されていたりする方の病院が良心的とは限りません。それは雑誌やメディアに取り上げらているレストランの全てが美味しくてサービスも素晴らしいなんてことがないのと同様です。“美容整形”をするにあたって、せめて1時間以上は対応してくれる病院を選ぶべき(適当の意)だと思います。もちろん、時間的対応だけが全てではありませんが、その人の人生まで考慮してくれるような病院を選ぶ必要があります。さもなければ、取り返しのつかないことにもなりかねません。CMを多く放送している美容整形の病院が1年間にいくつもの訴訟を抱えているというのはあまり知られていない事実です。

 そして、何より、決断する前にもう1度“美容整形”の必要性について考えるべき(適当の意)です。私は“美容整形”に寛容的だと申し上げましたが、それは積極的肯定ということではありません。“美容整形”をしたからモテるということでもありません。それは帰納法的思考をすれば明らかです。顔がさほど綺麗(失礼!)ではない女性でも素晴らしい男性とお付き合いなさっているケースが多いのと同様、顔が綺麗でもモテない女性は案外いるものです。

 では、前者の彼女たちと後者とでは何が違うのでしょう、か。言うまでもありませんが、彼女たちはそれなりの努力をしているのです。あなたがお昼にかつ丼定食を食べている間、彼女たちはサラダのみにしているのかもしれません。また、いくら酔っぱらって帰宅したからといって、メイクをしたまま眠るなんていう“暴挙”をしていないのかもしれません。もちろん、ファッションにも気を遣っているのです。何も“美容整形”をすることが“美人”になることの近道ではありません。それは、もしかしたら政府の短絡的な増税政策が景気回復に繋がらないことと同様のことなのかもしれません。

 
 “美人”になるために、日々メイクを工夫したり、お肌の手入れをしたり、歩き方や食べ方、しぐさに気を配ったりすることも、女性に与えられた人生の“楽しみ”の1つではないでしょう、か。

“政治家”の靖国神社参拝について“公人として”か“私人として”か、にのみ重きをおく人々の“異常”な警戒感とは?

「“政治家”の靖国神社参拝について“公人として”か“私人として”か、にのみ重きをおく人々の“異常”な警戒感とは?」

 麻生太郎副総理と古屋圭司拉致問題相が21日に靖国神社に参拝したことが報道されている。新藤義孝総務相も20日に参拝しており、第2次安倍内閣の3閣僚の参拝が明らかになったのだが、総理大臣である安倍晋三氏は21日からの春季例大祭で、神前に捧げる供え物「真榊(まさかき)」を奉納するのみにとどめた。

 私は“政治家”の靖国神社参拝には大賛成である。この賛成という言い方も不自然であるのかもしれないが、参拝するか否かはあくまでも個人の自由である。それを「閣僚になったのだから、外国に配慮して参拝などしないほうが賢明だ」という論調には首を傾げずにはいられない。閣僚になったからといって、思想信条を曲げるというのは明らかに“異常”である。だから、私は“政治家”が靖国神社に参拝することにも、伊勢神宮に参拝することにも何ら疑問を持たない。戊辰戦争以来、この国を守るために戦って亡くなってしまった人々を英霊として祀ってある神社に参拝することは日本人として当然であると思うからだ。

 しかし、世間には相変わらず、靖国参拝について「“公人”としてか“私人”としてか」という点に重きをおく人々がいる。石原慎太郎氏が都知事時代に靖国神社参拝について毎日新聞の記者と遣り取りをしたときに、私的参拝か公的参拝かについて、石原氏が「どうやって肩書き外すんだ?じゃ、記帳するときに東京都知事って書いちゃいけないの?」と発言していたのを何かで見たことがある。これは、単なる笑い話ではない。私は靖国問題の本質をついている発言だと思う。

 確かに“公人”として慎むべき(適当の意)行動というのはいくつかあるかもしれない。“不倫”などは言うも疎かであるが、“クラブでの豪遊”などもその一種かもしれない。しかし、神社参拝はそれには当たらないはずだ。なぜなら、その行為は「有権者にどう見られるか」ということが重要ではないからである。靖国神社参拝は政治家であろうと、医者であろうと、会社員であろうと、「この国のために戦って亡くなっていった多くの英霊たち」に各個人が様々な思いを抱いて行うことである。それには“肩書き”など関係ないのである。

 しかしながら、ここまでお読みになって頂いても、「外交的な影響が出ることは避けられない。(中国、韓国両国との)関係改善を損なわないよう配慮が必要だ」という“公明党山口代表的発想”を抱かれる方のために少しばかり私の見解を申し上げておきます。(というか、公明党が靖国神社参拝に反対する理由は他にあるのではないでしょう、か…)

 そもそも、靖国神社に参拝することが何故、外交上の問題になるのか私には全く理解できません。靖国神社に参拝される政治家の方で「戦争を肯定するために靖国神社に参拝に行く」と明言されている方はおられません。靖国神社に祀られている英霊たちは何も太平洋戦争で戦死した方々だけではありません。戊辰戦争以来、です。にも拘らず、隣国がお騒ぎになるのは“勉強不足”から陥る“被害妄想”から発せられる一種のヒステリーと言えるのではないでしょう、か。それをまともに対応しようとしてしても何の意味もありません。こちらに何らかの落ち度があるならばともかく、むやみやたらと私たちの行動にいちゃもんをつけるのはクレーマーに他なりません。

 政治家の靖国神社参拝は国内で議論されるべき(当然の意)ことであって、他国への配慮をするべき(適当の意)ことではありません。他国への配慮を第一にして国家としてのメンタリティを失ってしまっては、それこそ政治家として自国民に顔向けできません。(政治より歴史よりアイデンティティより、(自社の)経済成長が第一とお考えになられている経団連の皆様には到底理解できないことかもしれませんが)

 最後にこの問題についてもう少しだけ書かせて頂きたい。政治家の靖国神社参拝がこれほど話題になってしまう日本社会には、やはり未だに「“自虐史観”こそ“正しい歴史認識”である」といった考えが根強いのだと思う。この問題に対して憲法20条の「政教分離の原則」を持ち出してくる人々もいる。しかし、それは靖国神社参拝が「社会的儀礼(習俗的行為)」として認識されていないことの証でもある。「社会的儀礼(習俗的行為)」に対して、判例的にも認識的にも、非難する人は少ない。

 しかしながら、靖国参拝がかつての戦争の肯定化に繋がると考えてしまう人が多くいる結果、この件が“問題”として取り上げられてしまうのである。しかし、私はその考えには断固共感できない。私にとっての靖国参拝の認識は決してかつての戦争の肯定化ではない。靖国参拝が戦争肯定化に繋がるという考えはあまりにも短絡的である。日本人はそんな野蛮な民族ではない。“仏壇の横でクリスマスケーキを食べる”宗教観を持つ民族だからこそ、いずれは政治家の靖国神社参拝にも、寛容的になる時期がくると私は信じている。

大衆を愚弄する“B層”という空虚な日本語


 あれこれインターネットを閲覧していると“B層”という単語を目にすることがある。テレビでは「B級グルメ」といった単語も横行しているが、それとは別に「“B層”グルメ」というのもあるらしい。私はこの“B層”という言葉が大嫌いである。とりわけ、政治の問題で大衆を“B層”と括ってしまう評論家を軽蔑せずにはいられない。

 “B層”という単語がいつ頃から市民権を獲得したのかは定かではないが、この単語が造語となったのはどうやら郵政民営化のときらしい。“B層”の一応の定義は「具体的なことはよくわからないが小泉純一郎のキャラクターを支持する層」ということである。しかし、郵政民営化のときに“B層”という単語がどれほど流行していただろうか。私の記憶力が乏しいだけのことであるのかもしれないが、郵政民営化のときに“B層”という単語が流行していたという記憶が私にはない。むしろ、最近になって目にしたぐらいである。どれほど“B層”という単語が流行しているのかは私もよくわからないが、あえて社会学的な言葉を使うとしたら “ファッド”といったところではないだろうか。

 作家の適菜収氏の本の中ではよく“B層”という単語がでてくる。『日本をダメにしたB層の研究』(講談社)はその名の通り“B層”の研究である。私は数日前にこれを読んでみて、実際、このブログを書くきっかけにもなったのだが、小沢一郎氏の批判とともに繰り返される、大衆をバカにした物言いがどうにも頂けなかったというのが感想である。

 私が先ほど“B層”という単語が大嫌いだと言った理由がまさにそこにある。一部のインテリ(だと信じている人)には“B層”と大衆を括ることで「日本国民の多くは政策のことなど考えずにイメージだけで選挙に行く」と大衆を愚弄している人がいるからだ。そして、その様に大衆を愚弄する、自分たちは賢い層だと信じている人は決って、「だから、小泉改革も民主党の政権交代もうまくいかないんだよ。大衆が支持することはいつも失敗ばかりだ。政治が停滞しているのも、そんな政治家を選んだ大衆が悪い」と発言する。

 実際、適菜氏の『日本をダメにしたB層の研究』の「はじめに」の部分にも、「一番悪いのは、こうしたバカを政界に送り込んだ国民です。やはり、ためらわずに言うべきだと思います。わが国はバカに支配されています」と書かれている。この本は、冒頭からすべて「です・ます」体で書かれているのだが、それが客観性を表現するための作者の意図なのか、あえて“慇懃無礼”な文体で書くことで、文章そのものでも大衆を愚弄しているのかはわからないが、私はそういった大衆批判がどうにも好きになれない。

 そして、同時に、大衆を“B層”と括る、一部のインテリや評論家が、むしろ、そういった大衆の「知恵の輪」に恐れをなしているのではないかとさえ思うのだ。

 その一番の根拠がネットである。ネットでは誰もが自由に意見を述べ、そしてそれに反応する人々がいる。誰もが「発言者」たり得るネット社会では政党の政策においても人柄においても様々な情報が得られる。今日の日本で大々的なプロパガンダが通用しなくなったのにはネットを利用する大衆の存在があると私は思う。“B層”と括る人々はそういった事実を認めず、大衆を愚弄することで空虚な自分の聡明さを得ようとしているのではないだろうか。

 政治に通暁している方々はお怒りになるかもしれないが、私は政策が政治家を選ぶ基準にはならないと思っている。評論家が指摘する「イメージに踊らされる」B層というのも有権者であることには違いない。「ファッションから政治を語る」ことをモットーにしていから言うわけでもないのだが、ファッションやルックスやしぐさも、有権者が政治家を選ぶ基準であって良いと私は思う。選挙制度とはそういうものである。それを批判することは結局のところ民主主義の批判に繋がることになる。だから、そもそも、“B層”の揶揄される根源である「一時的な感情やイメージで政治家を選ぶ」といった点にも私は好意的であるため、何も“B層”と大衆を括ることにこれほど長々と持論を述べる必要もないのだが、それでもやはり、「大衆批判」という点で大衆を“B層”と括る人々に一言物申せずにはいられなかったのだ。

 社会学者で哲学者の鷲田清一氏は『<想像のレッスン>』(NTT出版)のなかで言葉について「何かすでにあるものを叙述するというより、なにかある、形のさだかでないものに、はじめてかたどりを与えるということ」と書いておられた。

 “B層”。その言葉もまた、実体のないものをあえて括り、他と「分ける」ことで、言葉だけが独り歩きしてしまった、空虚な日本語の1つではないだろうか。