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2013年10月

“花の美しさ”と“美しい花”の違いとは何か

 
 先日、文藝評論家の山崎行太郎先生と一献を傾けながら「マルクスとマルクス主義」についての話になった。「マルクス」と「マルクス主義者」は決定的に違う、という具合だ。それは政治、経済に限らず、文学でも映画でも何でも当てはまると私は思うのだが、「マルクス」と「マルクス主義」の決定的な違いは「戦っているかどうか」ということではないだろうか。
 
 曖昧な表現ではあるが、「マルクス」は自分で考え、そして常に何かと戦っていきた人である。それに対し、「マルクス主義」は理論で頭をいっぱいにしてしまい、戦わない人であると私は思う。
先ほども述べたが、それはどんな分野でも当てはまる。政治でも同じであり、小沢一郎が先の衆議院選挙以来没落していったのも、周囲の「小沢一郎主義」の人々が幅を利かせたからではないだろうか。
 
 そして、私はある戦後最大の批評家のことを想起した。小林秀雄である。小林秀雄は常に戦っていた。小林の有名な言葉としてよく取り上げられる、「頭のいい人はたんと反省するがいい。僕は馬鹿だから反省しない」という言葉がそれらをすべて物語っている。戦後、右翼的文化人が次々に左翼的文化人へと転向していく中で彼は戦い抜くことを選んだ。時代の風潮に合わせて思想や考えを変えることがいかに文学的ではないということを彼は知っていたからだろう。そこに彼が「マルクス」と成り得た理由があると思う。つまり、転向していった人々は時代の風潮や周囲の意向に左右されたのである。そして、風化していったのも事実である。

 小林は常に自分自身で考えることの重要性を説いてきた。「美しい花がある、花の美しさという様なものはない」と彼は「当麻」というタイトルのエッセイで書いているが、これこそ彼の思想そのものである。転向していった、多くの「マルクス主義」的文化人は理論や過去の知識で頭をいっぱいにしてしまい、自分で感じたことや考えたことは押し殺してきた。常に周囲の意向に合わせたり、先人たちの思想に沿うように自分の考えを捻じ曲げたりしてきた。それに対し、小林は過去に唱えられていたり、多くの人が唱えられていたりする「花の美しさ」といった固定的な概念を否定し、自ら感じたままに筆を執っていたのである。これには当然多くの反発が予想される。しかし、彼はその道を選び常に戦いながら文章を書いてきたのだ。

 ここに「マルクス」と「マルクス主義」の違いがある。それは「小林秀雄」と「戦後の転向文化人」という図式でもあり、「小林秀雄」と「小林秀雄の研究者」という図式にも当てはまるのかもしれない。また、小林のエッセイを基にするならば「歴史」と「歴史家」という図式にもなるではないだろうか。私たちは常に「花の美しさ」というもので頭をいっぱいにしてしまう。それが正しいことであると思っているからだ。しかし、それは他者の考えの模倣であり、単に自分の考えを型にはめ込んでいるだけである。「花の美しさ」という理論ばかり追うのではなくて、「美しい花」を自分自身で探し出すことで「マルクス主義」から「マルクス」にも成り得るのではないだろうか。

 小林秀雄に現在や過去の通俗的な概念は通用しない。小林の文章は小林のものであり、小林の思想である。その1つ1つの戦闘的な言霊を私たちがどう受け取るか。それこそ「美しい花」を見つけ出すことであると私は思う。
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外人オトコとブチュー


 ここ最近、急に寒くなってきたような気がする。特に朝晩の冷え込みは厳しいものがあり、私は先週から冬用の布団を出している。なあんて、つまらない日常をだらだらと書くつもりはないが、やはり書く。(ここでご覧になるのを止めてしまうのも一つの選択肢かもしれません)

 私は寒くなると温かいスープが飲みたくなる。数日前、温かいスープとハンバーガーを昼ご飯として選んだボクは、少々値が張るものの国内産の食材を使用していることを売りにしているあるハンバーガーショップに出向いた。レジで注文を済ませ品物を待っていたところ、隣のテーブルに座っていた、黒人の男性と日本人女性がポテトを食べながら、いきなり、“ブチュー”とキスをするのだから本当に嫌になっちゃう今日この頃。まさに“ブチュー”という表現がぴったり。何故か、私はこういった場面に出くわすことが多い。それもハンバーガーショップで。以前も似たようなことをどこかで書いた気がするのは気のせいかしら。

 それはともかく、見てはいけないと思いながらも、好奇心旺盛で研究意欲があるボクは、チラチラ何度も見てしまうのだが、確かに“凝視”するボクも問題ですけど、そのカップルの“露骨”さといったら、日本人カップルには到底マネできないほど。

 ブチュブチュするのは構わないが、公衆の面前ではやめて欲しいなぁと思うのは、これ人情というもの。(保守派の評論家でなくてもこれくらいのことを感じる人は多いはずです)
六本木の交差点でちょっと信号待ちしていたり、ちょっと暗闇の坂に入ったりすると、まわりのカップルが、ブチュブチュし始めるのには、「日本も国際都市になる、かな」なあんて期待も込めようこともできますが、この手の“異国人カップルブチュー”には、いささかの抵抗を覚えてしまう。

 しかしながら、まぁ、ボクの“少ない”経験と“根拠のない”統計から申し上げますと、外国人男性と日本人女性のカップルにおいて、その日本人女性にろくなのがいないというのは、偏見かもしれないが、これが結構当たっているから困ってしまう。(ちなみに、私の叔母はアメリカ人と結婚しております…)それは容姿いかんというより、なんというか、勘違い女が多いというか……。

 だいたい、この手のカップルの日本人女性は、キスをした後、まるで自分までもが外国人になったような表情をしていて、本人は自己陶酔しているのでしょうが、こちら側としては何とも不快な光景。
本人は、“公衆ブチュー”のできる外国人と付き合っていることを見せびらかして、自慢をしているつもりでしょうが、底意地の悪いボクからすると、「日本人に相手にされないから外国人に逃げ込んだのでしょう?」と思わずにはいられないのである。

 ボクは以前、名古屋で、真っ赤なドレスを着た背の高い金髪美女(おそらくロシア系)が、セカンドバックを抱えた小さいオッサンと腕を組んで歩いているのを見て、幼心に、「ええなぁ~」と思ったことを今でも覚えているが、日本人男性と外国人女性のカップルの方が、いくぶん、好感がもてる。

 ここまで書いてきて、こういう書き方をずっとしていると、まるでボクが人種差別や女性差別をする“国粋主義者”のように見えますが、そうではありませんよ。単なる“偏見”と捉えて頂いて結構です。ただ、ボクは、公衆の面前で、わざと、堂々とキスをする“濃く吸い”主義者に嫌悪感を覚えているだけですからね。