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2017年06月

“行き過ぎた没個性”の都民ファーストの会

いよいよ、都議選も近くなってきたが、自民党VS小池都知事(都民ファーストの)という二項対立の構図ばかりが連日報道されている気がする。
視聴率至上主義のテレビは二項対立といった単純明解な構図ばかりを連日報道しているが、それがむしろ、視聴者離れに繋がっていることにそろそろ気がついたほうが良い。
加計学園の問題もそうだが、同じようなことを何度も何度も報道し、面白みに欠ける。小池知事の豊洲問題、オリンピック問題にしても、敵を作り出して正義が自分の方にあるのをアピールするのは小池知事の手法だと分析しているが、それをテレビが助長していることを、そして、それがテレビをつまらなくしていることをテレビ側もまた考えたほうが良い。
さて、小池都知事の都民ファーストの会であるが、先日の候補者が集った総決起大会を報道で拝見しても、私はとても違和感を覚えた。つまり、都政の担い手としての、議会人、政治家としての雰囲気があまりにも感じられなかったのだ。候補者は、反自民として離党した元自民党などの候補者と小池知事らが発掘した新人候補者と二通りあると思うが、個人的にはどちらもあまり信用できない。
前者の中には、先の都知事選で、石原慎太郎氏が「大年増の厚化粧」と小池氏を批判したときに、その後ろでゲラゲラと笑っていた人物もいる。何とも情けないではないか。
後者に関して言えば、総決起大会での様子を見たり、候補者の発言する姿を見たりしたが、どの候補者もあまり自分の言葉で話しているようには思えず、自分の考えで行動しているようには思えなかったということである。
ファッションの面から言えば、個性あるものはおらず、オシャレでもなければダサくもない。皆、ノーネクタイで、一般的なスーツを着用されている。都民ファーストの会の総決起大会で、壇上に候補者が並んだときの写真がとても印象的だが、私が拝見した限り、誰もネクタイをしていなかった。クールビズの昨今、当たり前かもしれないが、ネクタイを締める候補者がちらほらいても、と思う。広告代理店か何かの指示かもしれかいが、あまりにも統一感があり過ぎた。無論、悪い意味で、である。
もしかしたら、環境大臣時代にクールビズを導入した小池知事に皆が気を遣っているのかもしれない。「私がせっかく暑苦しいネクタイから解放してあげたのに」といった思いもあるのかもしれない。
個人的には、パーティーなどで壇上に上がって注目される場合や室内で多くの人から見られるときには、政治家の方は夏でもネクタイを締めるべき(適当の意)だと思うが、小池知事にしてみれば、機能性もなく伝統や慣習のみで締めているそれらもまた“負の遺産”だと思われているのかもしれない。
また、候補者の発言を拝聴しても、心に響く熱意がないと思う。あまりにも真っ当なことを、あまりにも上手に滑らかに話し、まるで新人アナウンサーのような候補者ばかりである気がする。候補者の皆がどこかで同じような研修を同じように受けているかのこどくである。
それでは、政治家としての、個性に欠けると思う。それらはまるで“ステレオタイプ”のようである。小池都知事の都民ファーストは、本来、革新的なグループであるにも拘らず、すでにもう、“ステレオタイプ”のような印象を受けてしまうのだ。新人男性候補の皆が経歴も出で立ちもそれなりに良く、話し方もしっかりし過ぎている。ファッションも無難すぎる。
誰かが、都民ファーストの会は、政治家になりたいがための経歴の1つのためだけに参加している人が多いと言っていたが、それは、まさに旧民主党に多かった松下政経塾出身というのとどこか似ていると思う。
地盤も看板も鞄もないが、政治を志す者として学ぶべく通った松下政経塾が、いつの間にか、松下政経塾出身というのが、1つのブランドになってしまった。脱ブランド化が1つのブランドになってしまうという皮肉である。それは、無印良品がヨーロッパでは、「MUJI」として立派なブランドとして認識されているのと同じことなのかもしれない。
「東京の都市空間が崩壊し、単なる記号の集積として見て取」ったとして、田中康夫氏の『なんとなく、クリスタル』を評価したのは江藤淳氏であるが、その東京で、今まさにある種の“無印的”都議会議員が何人か誕生しようとしている。
都議選まであと少し。果てして、都民はどういった選択をするのだろうか。少なくとも、私は、今のままの都民ファーストの会も小池都政も支持できない。“行き過ぎた没個性”というのもおかしな日本語だが、今の都民ファーストの会には、そのおかしな日本語表現も含めて、私にはそう感じのである。
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